ひとり 人生最終期に思ふ ”あうん”

今までの人生を振り返りつつ 私の生き方を綴るブログです。

1億の家から1間生活へと
私の幸せの基準



★薄れゆく記憶の追憶 【思い出深い長野県諏訪市】





blogmuraカテゴリー 60歳代 女性シニア

薄れゆく記憶の追憶
思い出深い長野県諏訪市

ついおく【追憶】の意味 - goo国語辞書
過ぎ去ったことに思いをはせること。

今回のコメントフォームの開設で、
こんなコメントを頂いたので、
その話題で深夜に書くことにしました。
(途中まで書いて続きは先ほど)

★ま○る様 37歳 女性
>以前、ブログに
>やってみたいことリストを載せていらっしゃいましたが
>そのなかで、長野県諏訪市を訪れたいという項目がありました
>実はわたくし、モロに諏訪市在住なので
>そりゃもう、めーっちゃくちゃ気になっています!(*´▽`*)
>諏訪市に何か思い出というか 目的、というか
>思い入れ…というか、おありなんでしょうか
>差し支えなければ お教えいただきたいです
>それでは、これからも更新楽しみにしています!


そのやってみたいリストはこれ▼
★私のしたい事 箇条書き(すくな)


https://ja.wikipedia.org/wiki/
長野県諏訪市
私の思いが深すぎて・・・
再び訪れたいと願う場所。

私は多分、幼い頃愛に飢えていた?
私は2歳年上の姉と
2歳年下の弟に挟まれた次女
それだけ書くだけでも
何となく『ああなるほど』と
思えそうな感じでは?

奇しくも私の息子の3人の子供
私からすれば3人の孫もそんな感じ、
二子目に男の子を切望したが、
残念な事に二子目も女子と、
親のちょっと残念な気持ちが
子ながらに伝わってくるという感じか・・・

待望の初の子供の姉と、
切望し男の子の誕生に喜々とする母、
愛情は分け隔てなく注いだのだろうが
私は結構繊細な子供だったと思うよ、
その辺りの色々な微妙感を
幼いながらに受け止めていたんだろうと思う、
私なそんな幼い頃のことを凄くよく覚えてる。

私の母親には姉がいた、
私からしたら叔母という関係だけど
叔母は女の子が欲しかったのに男の子ふたり、
私の実家に来ると私を溺愛してくれて
事あるごとに家に来ては、
その叔母にたびたび連れ出されていた、
その叔母が長野県諏訪市に住んでいた。

優しさと愛をたくさん注いでくれる叔母に
私は随分なついてしまったのすらよく覚えていて、
私は叔母が来ると必ず諏訪について行った。
幼稚園頃は、長いと半年ぐらいずっと居たと
あとで聞いたりしたけど、もっと居た様な気がする。

でも小学校に成ると、なかなかそうはいかず、
春休み夏休み冬休みと、
休みに成ると長野県諏訪市に居たね。
今はどうなのかわからないけど、
当時は、私の住む地域の学校の休みと
長野県諏訪市の学校の休みは全く違って、
私の夏休みは40日もあったのに・・・
諏訪の夏休みは半分ぐらいしかなかった気がする、
その反対に、冬休みがすごく長かったね、
休みの間中、長野県諏訪市で過ごすので、
友達がいっぱい出来た。

でも小学生高学年頃に成ると
家族で避暑を兼ねて遊びに行く程度で
私は叔母が来てもついて行かなくなった。

ついて行かなくなった理由とかは
自分では全く覚えて居ないですね。
ま・・・10歳も超えた頃、
私の心が何かで満たされて行ったから?

そんな風に、56歳の今、自分を分析してみた

そんな優しい愛おしい叔母は
早くに亡くなっていて、
私に彼氏ができたときに長野まで連れて行き
その後に肺の病気で亡くなって、
結婚報告に、お墓参りに行ってと・・・

あれから30年 
私は長野県諏訪市に行けていない。


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★今日は362円のコンビニ飯 
(´・ω・`)なんだかなぁ気分


楽天でもらったポイントを
Edyに変えて使っているので
この分は全て無料って事にはなるけど

なんとなく5月04日 今日は362円のコンビニ飯 2

やっぱ こういうご飯ってのは
空しいよね



帰宅したら・・・また
コメントの返答とか載せてまいります。



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ひとり 人生最終期に思ふ ”あうん”

あうん 阿吽
阿(あ)は口を開いて最初に出す音
吽(うん)は口を閉じて出す最後の音

そこから、宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされたり
対となる物を表す用語としても使用されたり
色々な使われ方をしてそうです。

すべての事柄には始まりが有り
終りが来るという意味合いの様です。

阿吽(あうん)の語源の元はインドのようで、
”宇宙”と壮大な表記をしている様だけど
私は、”あうん”を、ただの始まりと終わり
という意味合いで使うことにしてみました。

人の一生も阿吽